遺品整理・生前整理特集企画

九十歳。何がめでたい

文章作成者
伊藤祥子

この著者である佐藤愛子さんは、夏になると北海道に来て3ヶ月程過していると言う

北海道人にとっては馴染みのある作家さん。

 

「九十歳。何がめでたい?」と問われると、恐らく「90歳まで元気で生きていられることは本当に喜ばしいし、とてもおめでたいことと思います!」と言ってしまうだろう。

 

そう思いながらも実際に老いへと進んでいると、同じように何がめでたいのだろうと思ってしまうところもあります。

確かにめでたい事ではある。志半ばにして逝かなくてはならなくなった方も居る中で、ほぼ1世紀近く生きているのですから

自分も半世紀を生きて振り返ると、昭和から平成、そしてもう直ぐ新しい元号になり、それぞれの時代を見て味わっている、その時代に反することなく過ごしてきている。

決して大満足な人生ですとは言えないまでも、そこそこの人生とも思える。

 

結局は、その生き方がどんな風であるのかでめでたくも有り、悲しくも有りとなるのかも知れない。

 

著書の中にいくつかはっとさせられる箇所が有り、その一つに「老いの夢」の話がある。

 

耳が聞こえにくくなったり、予兆もなく膝から力が抜けヘナヘナと崩れ落ちたり、背中のあっちこっちが痒くなったりで病院へ行くと決まって老化ですね!と言われ、ついには「老化」との言葉もなく、ただ笑い合うだけとなるそうです。

読み進めると 若者は夢と未来に向かって前進する。老人の前進は死に向う の一文に出会う。えっ!とし、うーんと残念ながら納得でした。

更に、著者が同じ年齢の友人の話で「私の夢はね、ポックリ死ぬこと」と言っている件は、苦しまずに逝く事の例えとしてよく耳にするし、自分も言っていた気がし頷いてしまう。

 

しかし、よくよく考えると身勝手な夢で、残される側への配慮に欠ける言葉だとつくづく思わされ恥ずかしくなってしまう。

許されるならと一言添え、夢というよりも人生最後の願望としての吐露ですね。

 

次に覚悟のし方です。

新聞に書かれている人生相談の話に回答するアドバイザーと著者の「覚悟」受け取り方の違いにまたしても感心してしまいました。

人生相談の内容は、20以上年の離れた男性と将来介護も厭わないと思ってる女性が、家族に反対され彼の人柄や自分の気持ちを伝えられないどうしたら良いかといった相談内容に、アドバイザーの「一生意思を曲げない覚悟」と回答するに対して、著者は長い年月の間にやがてやってくるかもしれない失意の事態に対する「覚悟」と言い切る。

それは、後悔し苦悩する日が来たとしても、それに負けずに、そこを人生のターニングポイントにして、めげずに生きて行くぞという覚悟だと言う

 

何度か失意のどん底に落ちた時が蘇って来た。でも周りに恵まれて今を生きている。

覚悟を持って生きて来たかと問われると、その時々によって異なり一概には答えられないが、自分にとってもその度毎にターニングポイントになっている気がする。

深い言葉として自分の腹に落ちてきました。

 

それ以外にも幾つかの著者の歯に衣を着せぬ話が山盛りあり、時代背景も併せ持って楽しく読み終えました。

 

最後に「おしまいの言葉」で、25歳で小説を書き始め、88歳で長編小説を書き上げた後は頭も体もスッカラカンなって、成し遂げた気持ちになり、やっと老後をのんびり過ごそうと思ったようでした。

しかし、実際にのんびりした生活に入ると気が抜けて楽しくない。気力が籠らないと言う。

仕事を辞めれば訪ねてくる人も絶え電話も掛からず口を利かない日が珍しくなくなったそうです。家の2階には娘家族もいるが用事がない限り行き来しない。

週に二日、家事手伝いの人が来てもムッと座っている。

別に機嫌悪い訳でもないが、訳もなくニコニコもできないからムッとした顔になるらしい。

本を読めば涙が出て、テレビをつけてもよく聞こえない。庭の雑草が気になっても眺めるだけ。気が滅入って食事も食べたくなくなる・・・などなど

 

そんな生活が待っているのかぁと最後の最後にこちらも気が滅入ってくる感じで、淋しくなりそうでした。

 

ところが、そんな時に雑誌の方から週刊誌のエッセイ連載の話が来たという。週刊誌の連載ともなると、毎週締め切りに追われる姿を想像してしまう。

恐らく「のんびり」と「アクセク」が天秤にかけられたのは容易に想像が付くと同時に「良かったね!」と声を掛けてあげたい衝動に駆られた。

毎週ではなく隔週の条件で書く事を決めたそうですが、「90歳。何がめでたい」はこの時にひらめいたモノだそうです。

 

「のんびりしたい」は、ずっと働いてきた人の夢であり願望なのだと思う。

でも、いざ「のんびり」の夢が叶うと、何故かのんびりが身につかないものなのでしょうか

可笑しさが込み上げてきます。

 

ただ、思います。

のんびりできても出来なくても、生れてきた時から死に向かって進みます。

これは裕福でも貧しくても、平等に遣ってきます。

 

であれば、その死へ向かう中で何ができるだろうと考え、自分ができる内に遣れることはやっておこう!と思う。

若いうちは無限に思える時間も、半世紀を過ぎると限られている時間がどの位か考えだす。

そして、遣れることの中に、身辺整理が入ってくる。

前述に有った「ポックリ死ぬこと」の夢が叶った時、残された人々に全てを託すことになる。

託された人はどう思い、どう対処するのだろう・・・

何人かで故人の思い出話をしながら片付けるのだろうか?

それはそれで少し嬉しい気もします。しかし、その量が膨大であったら話も途切れ、ため息に変わってしまうのではないだろうか

大切にしまい込んであるモノは、本人でなければ大して価値のあるモノにはならないでしょう。

 

自分は本やエッセイが書けて連載依頼が来る筈もない。

ならば、溜め込んでいる自分では大切なモノと思い込んでいるモノの整理をし、そこをまた一つのターニングポイントとなるかも知れないと期待しよう。

 

広くなった部屋で思いっきり手足を伸ばし、体を動かそう。

固くなった筋肉、ダルダルになった脂肪に喝を入れてみよう。

 

身が軽くなったら、また外へ出たくなる。出会いが有る。何か新たな発見が有るかも

 

 

本を読む前は「ポックリ死ぬこと」の方だった気がするが、死ぬまでに出来る事を探し始めてます。

 

さ、整理しよう。私はまだ生きているのだから

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